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1. プロローグ


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ページID:0001030 更新日:2022年1月17日更新 印刷ページ表示

 珠洲焼は、12世紀中葉(平安時代末)から15世紀末(室町時代後期)にかけて、珠洲郡内*1で生産された。北海道南部から福井県にかけての日本海側に広く流通した、中世日本を代表する焼き物のひとつである。

プロローグの画像1

 製造技術は、古墳時代から平安時代にかけて焼かれた須恵器*2の技法を受け継いでいる。丘陵の斜面にトンネル状の窖窯*3を築き、燃料の量に対して供給する空気を制限する還元炎焼成*4を行ない、1200度以上の高温で焼き締める。さらに、火をとめる段階で焚口・煙道を密閉して窯内を酸欠状態にすることで、粘土に含まれる鉄分が黒く発色*5し、焼きあがった製品は青灰~灰黒色となる。釉薬は使用していないが、焼成中に降りかかった灰が熔けて自然釉を生じ、独特の景色となっている。

 器種は、貯蔵に使われた甕・壺と調理に使われた鉢の三種類が主に生産されたが、経筒や仏神像、水瓶(すいびょう)といった宗教儀礼に使うものや、魚網の錘(おもり)など、多種多様な製品を作っている。

 初期の珠洲焼には、瀬戸内地方の東播系窯*6や、東海地方の常滑窯・渥美窯の影響がみとめられ、生産を開始するにあたって、それら生産地からの技術伝播があったとみられる。その背景には、当時の珠洲郡の大半を若山荘*7として領有した京の九条家と、直接荘園経営にあたった日野家の関与があったのではないかと考えられている。それは、珠洲焼の生産期間が若山荘の成立・衰退とほぼ軌を一にしており、荘園経営の一手段として窯業が導入されたとも理解できるからである。

プロローグの画像2

 製品は、海上輸送*8によって日本海沿岸伝いに運ばれた。陸上交通が発達していなかった当時において、遠隔地への往来や物資の輸送には、水上交通(海・川・湖)のほうが便利であった。焼き物という重量物を出荷する流通コストの面では、日本海に突き出した能登半島は、地の利があったといえる。

 14世紀には最盛期をむかえて、日本列島の4分の1を商圏とするまでになったが、15世紀後半には急速に衰え、まもなく廃絶した。この衰退の理由には、室町時代後期には戦国の世になり、生産・流通の後ろだてであった荘園領主の力が衰え、流通圏確保が難しくなったこと、また越前窯や常滑窯、備前窯などが分業や窯の大型化により、生産性を向上させていったことに対抗できなくなったことなどが考えられる。

 現在、窯跡は約40基ほどが見つかっているが、生産の期間や流通量を考えれば、まだ多くの未発見の窯跡があるものと想像されている。

*1 珠洲郡(すずぐん)

 古代に設定された行政区分で、現在の珠洲市および鳳珠郡能登町の旧内浦町地域が相当する。養老2(718)年、越前国から珠洲・鳳至・能登・羽咋の4郡が分離されて能登国が成立する。

*2 須恵器(すえき)

 5世紀ごろに朝鮮半島から焼成技術が伝わった、灰黒色の無釉陶器。土師器(土器)に比べ高温で焼くため、硬く保水性が良い。土師器より高級品で、全国各地に設置された官営工房で生産された。平安時代末に官営生産体制が崩壊するまでを須恵器と呼称し、中世以降の須恵器の技術を継承している珠洲焼などは、須恵器系という。これに対し、8世紀ごろから灰釉陶器(瓷器)を生産した愛知県猿投窯の系譜を引く常滑窯、渥美窯、瀬戸窯などは、瓷器系という。

*3 窖窯(あながま)

須恵器を焼く窯として日本に伝わり、その後の瓷器も含め、中世末まで一般的に用いられた陶器窯形式。山の斜面を利用したトンネル状の単室構造で、近世初頭から使われだした複室構造の登窯とは、区別される。地下式、半地下式、地上式があり、瓷器(系)窯では、燃焼部と焼成部の境に天井を支える柱(分炎柱)がある場合が多い。

*4 還元炎焼成(かんげんえんしょうせい)

 窯内への空気供給を不足気味にすると、粘土や釉薬に含まれる鉱物から酸素を奪い(還元)、特有の色を発色する。須恵器や青磁の色は、鉄分が酸化第二鉄から酸化第一鉄となる還元反応による。また、耐火度の低い粘土を焼き締める場合にも適している。還元炎に対して、酸化炎、中性炎がある。薪を焚く窖窯では、燃焼が不安定なため、酸化と還元を繰り返している。

*5 鉄分が黒く発色

 焼き物表面の色あいは、消火時の操作によって最終的に決まる。窯を密閉しないと鉄分が酸化(酸化第二鉄)して赤褐色となる。酸化還元反応は900度以上で起こるため、還元雰囲気で温度を下げた場合、焼き物が900度以下に冷めれば、その後、窯内が酸化雰囲気になっても赤褐色になることはない。銀黒色のイブシ瓦なども須恵器と似た窯閉塞消火技法をとるが、これは鉄分還元による発色ではなく、焼成温度が低いためにスス(炭素)が滲み付いた(蒸着した)もの。須恵器や珠洲焼は、高温で焼き締めるため炭素が蒸着せず、鉄分の発色だけで灰黒色を呈する。

*6 東播系窯(とうばんけいよう)

兵庫県南部の東播磨地方に分布する、神出窯・三木窯などの須恵器系窯の総称。壺・甕・鉢と瓦を主に生産し、平安~中世前半に、近畿と瀬戸内地方を消費地とした一大産地を形成した。

*7 若山荘(わかやまのしょう)

 能登国最大の荘園。国司源俊兼が私領化し、康治2(1143)年、荘園として公認された。伝領した息子季兼は、さらに所有権を確実にするため、皇太后の皇嘉門院藤原聖子に名義的な寄進を行なった。その後、本家(名義上の所有者)は聖子の実家である九条家に引き継がれ、領家(実質的な所有者)も源家と姻戚関係にあった日野家に移った。公家の領地である荘園は、鎌倉期以降、武家によって侵食が進むが、日野家は室町幕府将軍の正室をたびたび出していた関係で、戦国期まで支配力を保っていた。

*8 海上輸送(かいじょうゆそう)

 荘園からの年貢輸送から生じた、問丸(といまる)とよばれる商品輸送業者が主要な港や都市に居住し、中世を通して発展する。これが近世以降の問屋となる。日本海の航路(流通ルート)は、若狭湾で東西に分かれていたため、珠洲焼が山陰方面まで直接流通することはなかった。

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