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2. 中世の社会とやきもの


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ページID:0001031 更新日:2022年1月17日更新 印刷ページ表示

2.中世の社会

 一般に「中世」とは、平安時代後期(11世紀後半)から、戦国時代(16世紀)にいたるおよそ500年間をさしている。

 この長期にわたる中世は、政権担当者あるいは所在地によって、中世前期(院政-平氏-鎌倉時代)と後期(南北朝-室町-戦国時代)に分けられる。中世は、かつて前期の公家と武家、後期の武家相互ないし“下剋上”による政権争奪にみられた“地方分権の時代”、社会史的には、戦乱・一揆と飢饉に象徴される“暗黒の時代”とみられたこともあった。

 だが、中世初頭をいろどる六勝寺・鳥羽離宮に代表される院政権下の造寺造宮事業から、一般庶民に目を注ぐと、苛烈な律令制集権国家を再編した王朝国家の支配体制から離脱するため、各地で私領を「開発」し成長を遂げた在地領主や名主百姓たちが、耕地や生業に対する一定の権益を認知された時代でもあった。そして、“大開墾の世紀”は農耕地にとどまらず、商人や多様な職人・芸人が、山林原野、江河池沼および海洋を舞台として、活発な生産・交易活動を展開したこともみのがせない。

 主題である珠洲窯が、須恵器系工人を遠方より招き寄せ、陶土と燃料を確保するため珠洲地域の「陶山」を「開発」し、広域民需品の特産品として開窯した点で、まさに日本海域における“中世の開幕”をつげることであったといえよう。珠洲陶器を構成する甕・壺・片口鉢の三点セットと、変化に富む宗教具は、開拓村の開発資材であり、さまざまな祭祀仏事と埋葬にあてられた必需品であった。

片口鉢

 中世はこのように、「地域史」が「列島史」の改革を推進したところに、一つの特徴が認められる。と同時に、従来、国家間の外交を基軸として展開してきた中国(隋・唐)、朝鮮(百済・新羅・高句麗三国)を中心とする大陸諸国との関係が、公私貿易の共存の形で恒常化した。すなわち、平安前期まで、高級官僚・社寺の独占物とされてきた輸入陶磁器が、11世紀後半代以降、大量に流通したことは、貨幣とともに日常の必需物資が東アジア貿易圏に深く連鎖した点で、重要な意味をもつ。珠洲陶器に中国陶磁をモデルにした器種が見出され、朝鮮陶磁に祖型がたどれそうな加飾法が認められるのは、中世的な“遠くて近い”東アジア諸国との関係を、端的に映し出している。

 また、珠洲開窯の事情に示されるように、土器・陶磁器からみた中世の開幕は、民需品レベルでの広域的な工人の移動と技術の拡散、文物の移動を前提としていた。それゆえ、容量と重量がかさむ中世陶器の大量輸送を規定した“海の道”ごとに、列島の陶磁器圏が形成された。古代以来、畿内の東辺に位置づけられてきた北陸の延長上に、東北日本海域が連動する、「北(陸)東(北)日本海陶磁圏」もその所産である。当圏は、博多と京都を結ぶ基幹ラインの焼き物文化に連なりながら、たえず直接的な対岸交渉の可能性をはらんだ展開をみせ、中国陶磁の流通に象徴される東アジア貿易圏の北辺として推移するのである。

 ところで、建武政権瓦解後の60年余りにわたる南北朝動乱後の中世後期は、天皇を頂点とする神権的な権威と、貴族・社寺権門の足場であった庄園公領体制が、根底から揺らいだ時代であった。その主役は、列島の基層をくまなく洗うようになった貨幣経済の発達*1であり、それによってひき起こされた、都市・農産漁村における既成の身分秩序や経済機構の変動があった。中世後期に、畿内を中心に頻発する土一揆は、貨幣流通がもたらした“有徳者と乞食”への階層分解の様相が尖鋭化した時代といえる。

井戸に使われた珠洲焼大甕

 こうした状況は、焼き物業にも敏感に反映し、土器・陶磁器に対する急速な需要増をうけて、東北太平洋域や中部高地で灰釉陶器系の在地中世陶器窯が稼動し、西日本を中心とする各地では、コストの低い煮炊・調理具の小分業圏が競立した。反面、北日本海域では、東北の珠洲系諸窯や、一国規模の加賀窯が、珠洲窯と越前窯の膨張によって廃絶するなど、小規模生産地の淘汰がすすみ、15世紀代に入ると珠洲窯も片口鉢専業志向を強めるようになる。

 中世の焼き物、とくに陶磁器類は、ともすれば陶芸あるいは茶道の世界にとじこめられ、古美術品として鑑賞の対象とされるばあいが多い。しかし焼き物は、それぞれの時代の社会経済ないし文化の動向と緊密にかかわっており、茶陶のような嗜好品を除けば、民需品として大量に生産され、町市・港湾や城館・村落あるいは祭祀・経塚・墳墓など、一連の生活・宗教遺跡で大量に消費された“生活の器”であった。王朝貴族に代わり武士が歴史の檜舞台に登場する、古代から中世への転換期に生まれ、近世の開幕をつげる戦国の動乱のさなかに滅んだ珠洲陶器が、中世の社会を語る重要な歴史的文化遺産であることがおのずから了解されるであろう。

*1貨幣経済の発達

国産通貨は、和銅1(708)年の和銅開珎に始まり、以後数種の貨幣が鋳造されたが、発行量不足により、通貨としての機能を十分に果たせなかった。一方、平安時代より盛んになった中国との貿易で中国銭が大量にもたらされ流通し始めると、朝廷もこれを通貨として追認するようになった。こうして中世日本の貨幣経済は、中国銭に支えられて発達することになった。こうした状況は、寛永13(1636)年、江戸幕府が寛永通宝を発行し、輸入銭の通用を禁止するまで続く。