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4. 研究抄史


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ページID:0001034 更新日:2022年1月17日更新 印刷ページ表示

 珠洲市郡における中世の窯業生産遺跡が、珠洲古窯として周知される以前から、多量の陶器片を出土する箇所は「クロバタケ(黒畑)」(三崎町寺家窯)、「カメワリザカ(瓶割坂)」(上戸町寺社窯)、「カメガタン(瓶ヶ谷)」(馬緤町馬緤窯)、あるいは窯跡の所在に由来すると推定される「カマノマエ(窯の前)」(宝立町柏原郷窯)、「カマノ(窯野)」(同町西方寺窯)の通称で呼ばれてきた。

 しかしながら、これらを考古学研究の対象としてとりあげ須恵器の窯跡と認定したのは、昭和24年以降、高堀勝喜・沼田啓太郎氏ら石川考古学研究会のメンバーとともに、窯跡の検証、遺物の採集に努めていた中野錬次郎氏が、昭和25年、寺社カメワリザカ窯を発見したのが最初である。

研究抄史の画像1

 ついで、昭和27年、九学会による能登総合調査が実施された際、駒井和愛教授らがカメワリザカ窯と、この年中野氏が『すずろものがたり』誌上に発表したばかりの郷窯を踏査された。駒井教授は、さらに先年、永禅寺開山の墓地改葬の折に発見された蔵骨器に着目し、開山月庵こう瑛(げったんこうえい)が貞和三(1347)年示寂と過去帳にみえることを傍証として、能登調査第一年度の略報で、「須恵器の非常に退化したものです。(中略)それはそんなに古いものではなく、どうも足利時代、或いはもっとおそくまで須恵器というものが、焼かれもし、使われもしていたと思われます。それなどは古いやり方のものが、割に保存され伝えられているということを示すものでしょう。」(『座談会 能登の実態』45頁)
と述べ、珠洲陶器を須恵器の遺存現象とみなし、それをもって文化の遅達・停滞地域としての奥能登の表象とする意見を示した。

 九学会による総合調査を契機として、珠洲郷土史研究会に結集した葛原吉久・間谷庄太郎・中野錬次郎・和嶋俊二・馬場宏・坂下喜久次氏による、窯跡の分布調査と蔵骨器を中心とする遺物の検証が継続され、今日の研究の基礎が着実に進展し、特に窯体が遺存する西方寺窯を、昭和34年に須恵器窯跡として珠洲市文化財に指定し、保存措置を講じた先見性は高く評価されよう。

研究抄史の画像2

 こうした経緯をふまえて、昭和36年「日本海総合調査」考古班に所属した石川考古学研究会の浜岡賢太郎・橋本澄夫氏が現地を探訪し、これらの窯跡出土品の基本的な器種組成が甕・壺・片口鉢のセットからなり碗を伴わないことを指摘し、これを須恵器とは異質の、中世社会の新たな生産関係に対応して創出された中世陶器として処理すべきことを提唱した。そして、同年古美術研究家岡田宗叡氏も来訪し、間谷・中野氏らと談合の席上、“珠洲焼”“珠洲古窯”の命名をみるに至り、同年『陶説』102号に発表された「能登の珠洲古窯」において、「須恵器というべくは陶器に近く、陶器というべくは須恵器に近い」(同上誌17頁)製品として陶芸史上の位置づけを与えられた。

 石川考古学研究会は、ひきつづき昭和38年に実施された「能登総合調査」の一環事業として、珠洲窯跡の調査を重点的にとりあげ、上戸町カメワリザカ窯、宝立町郷窯、同鳥屋尾窯、同法住寺1~3号窯の灰原の試掘と西方寺窯の概測を実施し、ここに珠洲窯の考古学的調査はようやく軌道に乗ることになった。この成果は、同年10月、名古屋大学で開催された日本考古学協会において浜岡・橋本氏が発表、昭和42年には浜岡・橋本氏と吉岡『日本の考古学』4収録論文において要約し、いわゆる六古窯系の中世陶器と異質の珠洲陶器の存在が、学界の注目をあつめることとなった。

 以後、中野氏らによる寺家クロバタケ窯、馬緤カメガタン窯、大畠窯の確認と飯田高校郷土研究部(顧問和嶋俊二・木下力夫氏)による試掘、および馬場氏による内浦町行延窯の踏査によって、珠洲窯の分布は内浦から外浦にまたがり、半島先端より内浦町に拡大された。また、各地における調査の進展によって、珠洲陶器に代表される須恵器系中世陶器が、北海道を含む北東日本海域の中世陶器の主流を占めることが次第に明らかになり、窯跡の発掘調査が緊急の課題となった。よって、石川県古窯跡調査第二次分として法住寺3号窯が選定され、昭和47年発掘調査が行われた。そして、昭和51年には『珠洲市史』が上梓され、ここに基礎資料の提示と調査成果が一応集約されたのであった。
 以上、珠洲窯を中心に研究の進展を概観してきたが、他の北陸・東北諸県でも、主として昭和40年代以降、各種中世遺跡の調査の進展につれて、珠洲陶器と珠洲系陶器の関係、各種中世遺跡での流通・消費形態等に対する関心が深まり、須恵器との製作技術の非連続性を重視する観点から、越後の経塚・沈船遺跡出土の一括遺物に検討を加えた金子拓男氏等の一連の論説などが発表された。

研究抄史の画像3

 この間、昭和48年、石川考古学研究主催のシンポジウム“古陶磁よりみた日本海文化交流”は、各地における研究集約と論題の整理を意図し、以後の調査に多大の刺激を与えた。庄内考古学会は、昭和52年に機関紙『庄内考古学』「出羽の中世考古学」特集号を刊行し意欲的に取り組んだが、翌53年、石川県立郷土資料館の「珠洲古陶」展、同55年には、致道博物館の「中世のやきもの-珠洲・越前を中心に」展、高岡市立美術館の「珠洲古陶-越中における展開」があいついで開催され、資料の集成がすすめられた。

 そして、昭和50年に入ると、ようやく実態が鮮明化してきた西日本の須恵器系中世陶器との対比・検討を通して、珠洲系陶器の生産技術的特質が明らかにされた。また、生産・流通資料の集積がすすむなかで、中世産業史・商品経済史、ないし宗教思想史の一環として、中世陶器をとりあげる視点からの研究が鋭意進行中である。