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沿革

ページID:0001159 更新日:2022年1月17日更新 印刷ページ表示

 本市は、日本海に突出した能登半島突端に位置し往時から出雲、佐渡、「えぞ」を繋ぐ海洋交通の関門として、比較的早期に出雲方面から鉄器文化を輸入したことが窟われ、開田の営みも亦自ら促進するなど、その一説には古代能登文化は此の半島突端に発祥したとも考えられる。
 地名能登は古書に能門「ノト」と書き、後「能等」となし(語義アイヌ語に起因するとの説もあるが未だ確証を得ない)ヤマト国家時代成務帝6年には既に彦狭島命、能登国造の職にあり、爾後、国、郡の廃合が繰返されて大化の改新に及んだ。
養老2年能登建国のことがあり、越前、羽咋、能登、鳳至、珠洲の四郡を割きて能登国を置かれた。当時の珠洲郡の地域の大部分が今の珠洲市の区域である。万葉に見る「珠洲のうみに朝びらきして漕ぎくれば長浜のうらに月照りにけり」は天平宝宇元年大伴家持能登国主を兼任して当地に来り、我が珠洲湾の景勝を詠んだもので世に有名である。文治元年大納言平時忠、能登配流の地は市内大谷町で今も同地にその遺跡を存している。同3年源義経奥州に潜行の途次当地に至り、三崎権現に武運を祈願した。その頃(鎌倉時代)の珠洲郡の古郷は若倭、日置、草見、大足、余戸の5郷であるが、内余戸郷は今の珠洲市域外に属している。これらは天正6年前田利家能登一国を領するまで概ね畠山義統一族によって代々支配され、藩政時代に及んでいる。承久年中の注進に係る公田々数は、珠洲郡は8庄141町5反で、天正以後1郡6郷1庄とし、その村数112ケ村中垣内127処があった。藩政時代における郡の行政は金沢算用所内に、郡奉行所及改作奉行所があってこれを掌り10村を合わせて十村組とし組に十村役1人を村に肝煎役、山廻り役等の村役人が配され、当時の住民はその封建的藩政下に農奴的生活を強いられていた。十村役には恒方三代若山、延武、真頼三代等の名を挙げることができる。明治4年廃藩置県と同時に従前の十村役を郷長に改め翌年大区小区制の実施と共に1郡を3大区となし、大谷、飯田、松波に区会所を設けられ、藻寄行蔵、池田実、坂本推孝がそれぞれ区長に任ぜられた。当時珠洲郡の村数112ケ村、村高総計35,398石、その戸数8,243戸を算した。
 明治11年郡区町村編成法が布かれ、鳳至、珠洲2郡に1郡役所を輪島に設けられたが、のち珠洲郡役所を飯田村に分設し郡に郡長を任じ数村毎に1戸長を置き当初は民選により次いで官選に改めた。明治22年市制及び町村制の施行とともに、珠洲郡80ケ村を1町19ケ村に統合し、旧村名を以て大字名とし町村に町村長を大字に区長を民選することになった。
 明治40年前後数次に亘って町村合併を行ない、1町10ケ村となったが昭和15年前後において小木、宝立、木郎、正院の各村に町制を布き5町6村となり、昭和29年7月15日上記の5町6ケ村中小木、松波の二町を除く宝立、飯田、正院の3町及び上戸、若山、直、蛸島、三崎、西海の6ケ村を合して珠洲市を新設し今日に及んだが合併当時の市の面積は246,94平方粁、人口38,157人であった。